江戸時代後期の加賀。「海の百万石」と呼ばれた、天才的な豪商がいました。彼の名は銭屋五兵衛(ぜにやごへえ)、通称・銭五。全資産は300万両(約100億円)とも言われました。
銭屋五兵衛の偉業について学ぶ
石川県金沢市には、銭屋五兵衛の偉業について学べる銭屋五兵衛記念館(ぜにやごへえきねんかん)と銭五の館(ぜにごのやかた)があります。銭屋五兵衛記念館では、銭五の生涯が分かるシアターや、4分の1スケールの北前船模型、遺品やコレクションの数々が見られます。銭五の館は銭五が住んでいた館と蔵が保存されています。
銭屋五兵衛とは?
銭屋五兵衛という人物についてざっとご紹介しましょう。銭屋五兵衛は安永2年(1773)に現在の石川県金沢市に生まれました。代々両替商を営む家系で、屋号は銭屋といいました。
銭五が39歳の時に海運業に本腰を入れ、米の売買によって事業を大きくしました。最盛期には200艘以上の船を持ち、全国に34もの支店を持っていたといいます。50代後半には大海運業者として名を馳せ、加賀藩の金融の重要なアドバイザーとしても活躍しました。
銭五の大躍進と親友・大野弁吉
ちなみに前回ご紹介した、天才発明家・大野弁吉(おおのべんきち)は銭五とは大変親しい間柄でした。銭五が貧しい弁吉に援助をした一方、長崎で医学・天文学・科学を学んだ博学の弁吉は世界の情勢や海外貿易の重要性を銭五に教えたそうです。天才は天才を知るんですな。

外国からの密輸で巨額の富を得た商人
そんな大商人がいたなんて聞いたことないなあ……と首をかしげる人もいるでしょうね。それは学校の授業では取り上げにくい事情があるからです。実は銭五は「外国からの密輸で巨額の富を得た商人」という顔があるのです。お上ご禁制の貿易で大成功──ってのは教育的にいかがなものかという配慮があるのかもしれません。
ロシア、香港、アメリカ合衆国
当時の日本は鎖国中で外国との貿易はご法度。でも銭五の商売は加賀藩への献上金の見返りとして黙認されていたのです。全国の港には銭五の印である鵞眼銭印(ががんぜにじるし)と加賀梅鉢紋(うめばちもん)が描かれた千石船の帆がひるがえりました。
銭五の凋落(ちょうらく)
蝦夷地や択捉島でロシアと貿易、アイヌを仲介にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族などと交易、香港やアモイの商人と交流し、アメリカ合衆国ともつながりがあったと言われます。
なんとオーストラリアはタスマニアにも領地を持っていたという噂もあり、なかば伝説と化している大商人・銭五。しかし後ろ盾であった加賀藩・年寄衆筆頭の奥村栄実(おくむらひでざね)が亡くなると、急激に運気が下がり始めました。
獄死する銭五・一族は磔の刑に
銭五が力を入れていた河北潟(かほくがた)の干拓・開発工事は「銭五が河北潟に毒を流した」と噂を立てられ、住民の激しい反対運動が巻き起こりました。加賀藩はその罪を咎め、銭五の一族郎党すべてを投獄・はりつけ(銭五は獄死)、財産はすべて没収してしまいました。銭五の家名は断絶となってしまったのです。
生まれる時代が早すぎた
しかし明治時代以降、銭五は本当は冤罪だったのではないかという見方をされ、海外貿易の先駆者として評価されています。銭五の悲願であった河北潟干拓事業は、1963年から農林水産省による国営事業として行われ、1985年に完成したのですから、100年以上先の未来まで見据えた先見の明を持っていたと言えるでしょう。
銭五さん、息子を含め一族郎党はりつけ、自分は獄死なんて気の毒に。生まれる時代が早すぎたね。
日本なんて小せえ、小せえ
恥ずかしながら屋五兵衛のことはあまり知らなかったのですが、銭屋五兵衛記念館と銭五の館で彼のことを学び、「こんなぶっ飛んだ商人がいたんだ!」とワクワクしましたよ。
日本なんて小せえ、小せえ、これからぁ世界で勝負でぇ! という銭五の声が聞こえてくるような気がしました。もっといろんな人に知ってもらいたい偉人です。(2006年07月23日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
銭屋五兵衛記念館(ぜにやごへえきねんかん)銭五の館(ぜにごのやかた)
住所 :石川県金沢市金石本町ロ55
電話 :076-267-7744
時間 :09:00~17:00(銭五の館は10:00〜)
休館日:12~04月は火曜休、祝日の場合は翌日休、年末年始
入館料:記念館・銭五の館共通入館料 大人500円
駐車場:無料
関連URL:北前船の石川県銭屋五兵衛記念館・銭五の館