琵琶湖から京都東山に流れる人口水路・琵琶湖疏水は明治時代に京都を発展させた一大プロジェクトでした。琵琶湖疏水計画を成功に導いた田辺朔郎博士と、九条山浄水場ポンプ室について。
大学卒業したての青年を琵琶湖疏水計画に大抜擢!
前回の記事で南禅寺の水路閣をレポートしましたね。明治18年(1885)に着工した琵琶湖疏水計画において工事主任として任命された田辺朔郎(たなべさくろう)。彼は明治16年(1883)に工部大学(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりで、まだ21歳の青年でした。
卒業論文『琵琶湖疏水工事の計画』が高く評価された
田辺青年の卒業論文『琵琶湖疏水工事の計画』が当時の京都府知事の北垣国道に評価され、卒業と同時に京都府の御用掛となり、琵琶湖疏水計画の主任となったのでした。これは現代の日本では考えられない大抜擢ですよね。
若者にチャンスを与える明治人の柔軟さ
いくら優秀だからと言って、今の政治家が二十歳そこそこの青年をこんな巨大プロジェクトのトップに据えるなんてことがあるでしょうか。最近は「老害」──なんて揶揄されますが、若い人にチャンスを与える明治の政治家の柔軟さに学ぶことは多いですね。
琵琶湖疏水における高低差36メートルの難関
山の多い京都に運河を通すことは並大抵のことではなく、第二疎水まで完成したのは明治も終わりかけの1912年でした。最大の難関は蹴上(けあげ)までと南禅寺の船だまりまでの区間。ここには36メートルもの高低差があり、貨物船や旅客船が蹴上から先に進むことができませんでした。
船を台車にのせて運ぶインクライン(傾斜鉄道)
そこで考えられたのがインクライン(傾斜鉄道)です。船を台車に乗せて運河から運河へ昇降させるという画期的なアイデアでした。言うなればケーブルカーのように船を昇り降りさせて運んだんですね。
582メートルを片道10〜15分かけて運んだ
これがその船用のケーブルカー。蹴上の船だまりから南禅寺の船だまりまでの延長582メートルを片道10〜15分ほどかけて運びました。蹴上のインクラインは1996年に国の史跡に指定されています。この重厚なメカメカしさにワクワクが止まりません。
当時の旅行客にとってはアトラクション感覚だったかも?
建設当初は水車の動力でドラムを回転させ、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させていましたが、蹴上水力発電所が完成してからは電力で巻き上げを行うようになりました。旅客も運んだので、当時の人達は遊園地のアトラクションのようにインクラインを楽しんだのかもしれません。
インクラインの運転の仕組み
インクラインの仕組みです。3.6メートルのドラムを35馬力(25kw)で回転させて、直径3cmのワイヤーロープを電力で巻き上げます。水中には直径3.2メートルの滑車が設置されており台車がスムースに移動できるよう工夫されていました。
京都の人々を支える山ノ内浄水場導水管
こちらは第二疎水から取った源水をインクラインから仁王門通、冷泉通、鴨川横断、御池通を通って8km先にある右京区の山ノ内浄水場まで導水する鋳鉄管です。今現在も京都の人々の大切な水資源となっている琵琶湖疏水。つくづく明治の人の発想はダイナミックですごいなあと感心しました。
惚れ惚れするほど美しい煉瓦建築・九条山浄水場ポンプ室
琵琶湖疏水とインクラインをめぐる散歩でぜひ見ていただきたいオススメのスポットがこちら、九条山浄水場ポンプ室です。設計は片山東熊と山本直三郎。明治45年(1912)に竣工しました。これがもう惚れ惚れするほど美しいレンガ造りの洋館なのです。でも中はポンプがあるだけ。
皇太子時代の大正天皇をお迎えするための豪華建築
単なるポンプ室なのになぜこんなに美しいのか? それは皇太子時代の大正天皇が琵琶湖疏水に船でお出ましになられた時のためにこんな豪華なたたずまいになったのです。正面玄関が運河側にあり、高官がここにずらっと並んで皇太子殿下をお迎えしたそうです。柵があるので近づくことはできませんがぜひこの見事な建築をご覧になってくださいね。(2017年02月26日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
九条山浄水場(くじょうやまじょうすいじょう)ポンプ室と蹴上(けあげ)インクライン
住所 :京都府京都市山科区日ノ岡夷谷町(九条山浄水場ポンプ室)
京都府京都市左京区粟田口山下町 東山区東小物座町339(蹴上インクライン)
電話 :075-746-2255(京都市産業観光局観光MICE推進室)
時間 :見学自由