全長1.6キロにも及ぶ巨大な大迷宮。ここは戦争中に密かに作られた、千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕跡です。その複雑な内部構造は敵を惑わせるためとも言われています。
東京湾は帝都を守るための最重要軍事拠点
京都から東京へと遷都した明治時代、東京湾は帝都東京を外国の軍艦から守るための最重要軍事拠点でした。前回ご紹介した明治百年記念展望塔は日本陸軍の軍用地に建てられたので、公園内に海堡(人工島の上に砲台を供えた施設)などの軍事施設が点在しています。
東京湾に敵軍が侵入する場合房総半島の南端が最前線となります。そのため1880年(明治13年)から1932年(昭和7年)にかけて第一級要塞・東京湾要塞が造られました。
赤山地下壕の受付でヘルメットを借りる
赤山地下壕(あかやまちかごう)の受付で入壕料を払ってヘルメットを借ります。内部は天井が低くなっているところもありますからヘルメットは必携です。この日は雨降りでしたが地下壕は雨の日も見学できますので大丈夫ですよ。
実践航空部隊・館山海軍航空隊設立
第一次世界大戦が始まると、軍艦だけでなく飛行機が兵器として使われるようになりました。そこで1930年(昭和5年)には海軍の実践航空部隊として館山海軍航空隊(たてやまかいぐんこうくうたい)が設立され、館山市内には航空機の工場や燃料の補給施設が集中しました。
館山市には2つも軍人の教育機関があった
さらに1941年(昭和16年)には、対空射撃や陸戦隊の戦術を教えるための教育機関・館山海軍砲術学校を設立。そして1943年(昭和18年)に航空兵器整備のための洲ノ崎(すのさき)海軍航空隊も作られました。つまり館山には陸軍、海軍施設だけでなく、2つも軍人の教育機関があったわけです。一か所にこれだけ軍事施設が集中しているのはかなり珍しいことです。
極秘計画だったため設計図や資料が残っていない
この館山海軍航空隊赤山地下壕跡もそんな軍事施設の一つ。しかしながら戦時中のトップシークレットだったために、設計図や資料がほとんど残っていません。工事が行われたのはおそらく1935年(昭和10年)〜1945年(昭和20年)ぐらいであろうと言われています。
工事開始は1942年(昭和17年)以降か?
しかしながら、埼玉県の吉見百穴(よしみひゃくあな)の軍需工場の例を見ても分かる通り、太平洋戦争前に巨大地下壕が作られた例は他にないため、工事開始は1942年(昭和17年)以降ではないかと考えられています。この写真のように内部はかなり狭い部分が多く、戦争末期に突貫工事で慌てて作ったのではないでしょうか。
空襲で爆撃の振動があると天井から土が落ちてきた
このあたりの地層は比較的柔らかい凝灰岩の砂岩や泥岩です。そのため掘りやすいという特性もあったのでしょう。しかしその分もろく、空襲で爆弾の振動があると天井の土がパラパラと落ちてきたそうです。……え? 地震とか大丈夫かしら。……なんか怖い。
敵の侵入を防ぐためにわざと複雑な構造に?
地下壕全体で1.6キロもありますが、見学できるのは延長250mの部分のみです。あちこちに「この先危険 立入禁止」の注意書きがありました。行き当たりばったりで掘っただけあって迷宮のようになっていますから迷ったら大変! 一説には侵入した敵を惑わせるためにわざと複雑な構造にしたとも言われています。
天皇陛下の御真影を安置していた士官部屋
地下壕内部には発電所の跡や格納庫、診療室、電信室などもありました。こちらはガンルームと呼ばれていた場所。少尉クラスの士官たちの部屋だったようで、この四角く凹んだ棚には、天皇陛下の御真影を安置していました。さすがにここだけきっちりと立派に作られていますね。
戦後にキノコ栽培に使われた地下壕
これはお風呂。でも戦時中に使われたものではないそうです。説明書きにはこうありました。
終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。
地下壕でキノコ栽培! 終戦直後の人はたくましいなあ!
たくさんの出入り口がある迷宮
これは赤山地下壕をぐるりと周ってみたときの写真です。公開されているものだけでなくたくさんの出入り口があります。このようにはっきりと出入り口と分かるものもあれば、崩れた洞窟のようになっているものまで様々。発見されていない出入り口もあるようですよ。まさに迷宮ですね。
戦闘機を隠しておくための掩体(えんたい)
赤山地下壕跡のすぐ近くにぜひ見ていただきたいものがあります。歩いて数分の場所ですが見落としてしまう方も多いみたい。それは掩体(えんたい)です。掩体というのは戦闘機を格納するための施設です。戦闘機は大変貴重なものですから、空襲などで焼かれないようにこんなところに隠していたんですね。
地形を利用してうまくカモフラージュしてある
私の大きさと比べてみてください。戦闘機がギリギリ入る大きさにコンクリート製の屋根が作られています。この掩体は地形を利用してうまくカモフラージュしてあります。敵機が上空から探しても普通に草が生えているだけの地面にしか見えないのです。
40ヶ所あった掩体のうち残っているのはここだけ
中はひんやりと涼しいです。分厚いコンクリートで固められているからでしょうね。今も美しく保たれていますのでとても戦争中の建築物とは思えません。当時は40ヶ所以上もあった掩体ですが、現在残っているのはここと同じ館山市の香(こうやつ)に残っているもの2つだけです。
秘密基地のような戦争遺跡
敵機襲来時にここから迎撃に向かった戦闘機もあったんでしょうね。なんだか秘密基地のようでワクワクしてしまいました。戦争遺跡に対して不謹慎かもしれませんが、歴史を感じられる場所としてぜひオススメしたいスポットです。
戦争が長引いていたらさらに巨大な地下迷宮になっていたかも
赤山地下壕は1945年(昭和20年)08月15日の終戦の日まで建設工事が行われていたという証言があります。つまり地下壕はまだ未完成だということです。もし戦争が長引いていたらさらに巨大な地下迷宮に発展していたのかもしれませんね。(2016年10月09日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
館山海軍航空隊赤山地下壕跡(たてやまかいぐんこうくうたいあかやまちかごうあと)
赤山地下壕跡内の見学ルートのコンクリートモルタル吹付が一部剥落したため現在休壕中です。再開時期は未定ですが、詳細は館山市公式サイトを御覧ください。(2023年08月)住所 :千葉県館山市宮城192-1
電話 :0470-24-1911(豊津ホール)
休業日:第三火曜日、年末年始 ※選挙等行事のため臨時休壕あり
時間 :09:30~16:00
入場料:大人200円
駐車場:無料(20台)
関連URL:赤山地下壕跡の見学 | 館山市役所