青森県新郷村(元戸来村)にはキリストの墓があると言われます。竹内巨麿が公開した古文書・『竹内文書』が元ネタ。衝撃の資料が展示されている、キリストの里伝承館を訪ねました。
バスツアーに速攻申し込み
キリストの墓を見ることは子供の頃からの夢でした。今回村役場に問い合わせたところ、今年からバスツアーを始めたとのこと。やった、夢が叶う! もちろん一番乗りで申し込みました。
非常に詳しいキリスト伝説講義
08時45分に八戸駅を出発。道中、新郷村観光協会の男性からキリスト伝説についての講義がありました。他の乗客のみなさんが談笑している中、私一人が受験なみにガシガシメモを取ります。これ学研の月刊誌『ムー』(私の心のバイブル)より勉強になるなあ。
キリストの里伝承館を目指せ
キリストの里公園に09時40分到着。ものすごい人。テレビカメラや警察官の姿も見えます。祭り開催まで時間があるので、まずはキリストの墓に隣接したキリストの里伝承館(きりすとのさとでんしょうかん)を見学しましょう。
謎は『竹内文書』にあり
なぜここにキリストの墓があるのか? その秘密は『竹内文書』にあります。『竹内文書』とは武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫である竹内巨麿(たけうちきよまろ)が公開した古文書。
あ、このあたりで暗雲立ち込めてきた? そういうあなたはかなりのオカルト通と見た。
竹内巨麿による秘伝の歴史書
『竹内文書』は6世紀頃武烈天皇の命により長年秘密裏に保管され、天津教の教祖・竹内巨麿(1874〜1965)によって公開された秘伝の歴史書といわれています。最高裁判所でもその真偽が争われた謎の文書です(原典は東京大空襲によって焼失)。
奇想天外な日本の歴史が記されている
『竹内文書』には『古事記』『日本書紀』と大きく違った奇想天外な日本の歴史が書かれており、そのトンデモな内容は今もオカルトマニアの心も鷲掴みにしています。その『竹内文書』を解読した竹内巨麿がキリストの墓を発見したのがここ新郷村というわけ。
謎の12年間、キリストは日本で暮らしていた
聖書にはキリストの21歳から33歳までの12年間の行動が記されていません。発見されたキリストの遺言書(※)によると、その間キリストは越中の国にいた尊き方の弟子となり、33歳で帰郷。ユダヤ、ユダヤ、サマリア、ガリラヤで布教活動をしました。
磔刑になったのは弟のイスキリ
ゴルゴダの丘で磔刑となったのは、実はキリストではなく弟のイスキリでした。キリストは弟子と日本に逃れ、青森県において十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改めました。後にミユ子という名の女性と結婚し三女をもうけ、106歳の天寿を全うしてこの地に葬られました。
戸来村の「へらい」は「ヘブライ」!?
新郷村は元は戸来村(へらい)という名前でした。「へらい」はヘブライから来ていると言われるように、この村にはユダヤ風の風習が残っています。
不思議な戸来村の習慣
父を「アヤ(またはダダ)」母を「アパ(またはガガ)」と呼ぶこと、赤ん坊を初めて外に出すときに額に十字を描くこと、キリストの娘が嫁いだ沢口家の家紋はダビデの星型であること、農民の服装がユダヤの農民の服装に似ていること──。
昭和10年当時の当主は青い目で鼻が高かった?
村役場の方によるとキリストの娘の嫁ぎ先の沢口家の昭和10年当時の当主は、青い目で鼻が高く、非常に背が高かったそうですよ。ただし近年の調査によってキリストは金髪碧眼ではなく、アラブ系の顔立ちもしくは黒人であったとも言われています。
ただし竹内巨麿が来る前はキリストに関する伝承はなかった模様
現在沢口家にはキリスト教徒はいないようですし、キリストの墓と言われるようになったのは、竹内巨麿が戸来村を訪れた後の昭和10年10月10日にキリストが日本で亡くなっていたと発表した後。それまでは村には全くキリストに関する伝承などはなかったとのこと。うーむ……。
キリスト祭のレポは次回!
まあ、そんなことはさておいて、いよいよキリストの霊をなぐさめるキリスト祭の開催時間がせまってきました。いやが上にも高まる期待。興奮のキリスト祭の一部始終は次回の記事でどうぞ!(2006年06月04日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
キリストの里伝承館(きりすとのさとでんしょうかん)
住所 :青森県三戸郡新郷村大字戸来字野月33-1
電話 :0178-78-3741
時間 :09:00~17:00
入館料:大人200円
休館日:水曜(夏休み期間は無休)11月5日~4月下旬
駐車場:無料(10台)