神奈川県小田原市の尊徳記念館で二宮金次郎こと二宮尊徳の報徳思想を学びました。なんとなく「偉い人」ぐらいの認識だったのですが、彼の人となりや偉業を知ることができました。
どこの小学校にもあった二宮金次郎像
「二宮尊徳って誰?」って人もいらっしゃるのでは? 薪を背負って仕事をしながら勉強する二宮金次郎(にのみやきんじろう)の像を見ればお分かりになるかと。昔はどこの小学校にもあった二宮金次郎像ですが今は撤去されているところも多いみたいですね。歩きながらの携帯がマナー違反とされる昨今は仕方ないのかしら。
生誕の地と遺品などの展示
尊徳記念館(そんとくきねんかん)は昭和30年(1955)に建設され、二宮尊徳生誕200年祭を記念して昭和63年(1988)にリニューアルオープンしました。展示品のあるミュージアム部分と、二宮尊徳生誕の家のエリアにわかれています。写真は彼の生まれた家。誕生日は天明7年(1787)07月23日。実家は中流農家で、この家は江戸時代の中流農民の典型的な作りです。
当時の二宮尊徳生家を再現
結構大きな家なので裕福だったのかなと思いきや、彼が幼い頃に父母を亡くした際にこの家は売り払われてしまったそうです。時代は下って昭和34年(1956)、当時この家を所有していた渡辺家から譲渡され、当時そのままの形に復原されて尊徳記念館の一部になりました。
身長180cm、でかい!
二宮尊徳の銅像は実物大。実は尊徳さん180cm以上もある大男だったんですよ。江戸時代当時の平均身長からすると、びっくりするぐらい巨大。
ガイドさんのお話に涙ぐむ
ミュージアムではボランティアガイドさんがつきっきりで解説してくださいました。ガイドさんのお話をうかがううちに、胸にこみ上げるものがあってちょびっと涙ぐんでしまったりも。
昔のソーシャル・アントレプレナー
二宮尊徳は体験の中から作り出した報徳(ほうとく)思想によって村を豊かにした指導者です。報徳思想の実践により人々の生活を立て直し、多くの困難と闘いながら大名や旗本の復興を数多く成功させました。現代のビジネス用語で言うならソーシャル・アントレプレナー(社会起業家)でしょうか。
ひたすら勉強の幼少時代
リアルなマネキンで名場面が再現されています。二宮尊徳の幼名は金治郎。子供の頃から利発で勉強が大好き。でも当時は紙は貴重品ですから、箱に砂を入れた道具で字を書いては消し、書いては消し練習したそうです。
子供の時に父母を亡くして一家離散に
生まれたときには中流農家だった二宮家ですが、少年時代に起こった酒匂川の氾濫によって村は壊滅状態に陥ります。14歳で父を、16歳で母をなくして一家は離散。金治郎は叔父の家に預けられます。
勉強のための灯り油も自分で
彼が寝る間を惜しんで読書をしていると、油代がもったいないと叔父にしかられました。そこで自分で菜種を育ててその種を菜種油と交換して勉強をしました。「電気代払うから勉強させてください」なんて小学生、今いるんだろうか? なんてけなげな子供なんだろう。
次々と事業を成功させる青年時代
勉強しつつ必死で働き、20歳で生家の復興に成功。武家奉公人となった後小田原藩に取り入れられ、次々と事業を成功させていきます。地域の村々の開墾や復興事業にも着手。しかし画期的な事業はなかなか一般人の理解を得られないもので、村人からは冷遇されてしまいます。彼は成田山へ籠もって村の発展を願い断食修行をしました。村人は感動し、その後の計画はうまくいくようになりました。
民のために必死で働く
天保の飢饉では小田原藩の村々の救済にあたりました。マネキンは「飢える民がいるのに、役人ばかりが肥え太ってどうするのか!」と一喝し、城内の米蔵を開けさせている場面です。日本の政治家、お役人……みなさんここで勉強した方がいいんじゃないだろうか。起業したい、社会の役に立ちたいという人にも大いに役立つ教えだと思います。
小学校の二宮金治郎像は、今
人の幸せを願うこと、社会に貢献すること、必死で働くこと──二宮尊徳が実践した報徳の精神に胸が熱くなる思いがしました。でもね、ガイドさんによると薪を背負いながら歩く像は、実際はてんびん棒を担いでたらしく、幸田露伴の書いた本の挿絵で広まった事実無根の姿らしいよ。まあ天秤棒じゃ様にならないもんね。(2009年03月01日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
尊徳記念館(そんとくきねんかん)
住所 :神奈川県小田原市栢山2065-1
電話 :0465-36-2381
時間 :09:00~17:00(入館16:30まで)
休業日:年末年始
入館料:大人200円
駐車場:無料
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