明治35年(1902)に八甲田山で起こった悲劇をご存じですか? 日露戦争の2年前に199名もの兵士が雪山で遭難死した大事件です。青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館を訪れました。
八甲田山雪中行軍遭を知る博物館
平成16年7月にリニューアルされたばかりの八甲田山雪中行軍遭難資料館(はっこうださんせっちゅうこうぐんそうなんしりょうかん)には、第5連隊の迷走、凍傷のメカニズム、捜索に協力したアイヌ人の活躍、兵士たちの装備、当時のマスコミの様子など、詳しい説明パネルやレプリカが展示されています。
青森5連隊・210名の兵士たちが配置
当時日本軍はロシアとの戦いにそなえ、八甲田山から三本木にいたる進軍の予行練習を行いました。青森に侵入した敵を想定して、青森5連隊には210名が配置されました。1月23日午前6時55分、雪山へ行進開始。しかし猛吹雪により道に迷い、露営するはめに。
最悪の状況の中、瀕死の状態に
翌日の気温はマイナス20度。吹雪の中行進を続けますが、空腹と寒気により兵士の3分の1が死亡。3日目にはさらに3分の1の兵士が凍傷にかかりました。救援の要請のために志願者が出発するも、落伍者が続出。兵士たちは瀕死の状態に陥ります。
大規模な捜索が行われるも難航
4日目には無事な兵士はわずか10名。天候はさらに悪化。戻ってこない連隊を救護するために大規模な捜索が開始されたのはやっと1月28日になってからです。雪深い山での捜索は難航し、最後の遺体が収容されたのは5月の末でした。
生存者はわずか17名
総勢210名のうち救出されたのはたった17名。そのうち治療中に亡くなったのは6名。他の兵士もひどい凍傷にかかり、わずか3名だけが四肢健全な状態でした。
雪中行軍の雪壕模型
野営のために掘られた雪壕の模型。長さ5.5m、深さ2.5。天井を覆うことができなかったので厳しい寒さが襲ってきました。兵士の皆さんはどんなに辛かっただろう……と気持ちが沈みました。
様々な要因によって引き起こされた悲劇
なぜこんな惨劇になったのかというと、観測史上稀に見る最悪な気象状況だったこと、当時の装備(服装・食料)が現在の自衛隊の装備と比べて信じられないくらい粗末なこと、隊員に雪山に関する知識が不足していたこと、露営、行進が適切でなかったことなど様々な要因が考えられます。
幸畑陸軍墓地
資料館の隣にある幸畑陸軍墓地(こうばたりくぐんぼち)。ここには主に雪中行軍で遭難した兵士たちが葬られています。夕暮れ時で他に誰もいなかったのでいっそう寂しい風景でした。
整然と並んだ兵士たちの墓石
整然と並んだ墓石は、行軍そのままの隊列を組んでいるように見えました。もう行進しなくてもいいのに……。死後なお行軍しているように見えて胸が痛みました。(2006年06月05日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
八甲田山雪中行軍遭難資料館(はっこうださんせっちゅうこうぐんそうなんしりょうかん)
住所 :青森県青森市幸畑字阿倍野163-4
電話 :017-728-7063
入館料:大人270円
休館日:12月31日、1月1日、2月第4水・木曜日
見学時間 :09:00~18:00(04月~10月)09:00~16:30(11月~03月)
駐車場:無料
関連URL:八甲田山雪中行軍遭難資料館