岐阜県両界山横蔵寺。両界山横蔵寺は即身仏(ミイラ仏)で知られています。801年開山。戦国時代に織田信長によって破壊されてしまいましたが、400年ほど前に再建されました。
生きながら土中に埋もれてミイラとなる
即身仏とは厳しい断食修行の末、生きながら土中に埋もれてミイラとなったお坊さんのことです。その目的は衆生(罪深き人間)を救済すること。東北地方に出羽三山など東北のミイラ仏が有名です。ちなみに「即身成仏」は悟りをひらいて生きながら仏になることで「即身仏」とは別の言葉ですので誤解のなきよう。
ソバ粉を水でといたもののみを食べて修行
寺伝によるとミイラは1781年生まれ、本名は古野小市郎熊吉。母親が亡くなったのをきっかけに長野の善光寺で仏門に入り、妙心と改名しました。長年ソバ粉を水でといたもののみを食べ、修行にあけくれました。その後、妙心は山梨の御正体山(みしょうたいさん)で富士山の山岳信仰の行者になります。
31日間断食を続けて入定
1815年か1817年、34歳か36歳の時、信徒に白木のお棺を作らせて、31日間断食を続け入定されました。普通の即身仏はお弟子さんが遺体に腐らないような加工を施すことが多いのですが、妙心さんのミイラ仏は人工的な手を加えていない自然のままのミイラで珍しいものなんですよ。
見世物、山梨県庁、甲府病院
なぜ山梨のお堂にあった妙心ミイラ仏が横蔵寺にあるのか。実は明治時代の神仏分離運動により、御正体山から運び下ろされて見世物になっていたんです。その後山梨県庁、甲府病院に引き取られました。甲府病院の医学資料となっていた時、明治天皇がミイラをご覧になったという逸話もあります。
住職や子孫の働きかけで里帰り
こんな風にあちこちたらい回しされているうちに失われてしまった即身仏も多いのですが、当時の横蔵寺の住職や妙心さんの子孫たちが働きかけたおかげで、妙心さんは1890年に無事故郷に里帰りできました。以来舎利堂でお寺を守り続けています。
首をややかしげて、ぽっかりと口を開けている
舎利堂で妙心さんの生涯を1、2分のテープレコーダで聞いたあと、ミイラの入ったガラスケースの前に進みます。焦げ茶色の皮膚。首をややかしげて、ぽっかりと口を開けています。あぐらを組んで手をしっかりと握りあわせています。
学術検査が一度しか行われていない
このミイラは学術的な調査が昭和25年の一度しか行われていません。しかも調査時のデータは紛失している上、日本のミイラ研究グループが何度も調査の申し込みをしているのですが実現していません。そのためちょっとややこしいことに。
明治22年発行『巡回日記』の記述
というのも、明治22年発行の『巡回日記』という書物によると、明治12年の甲府病院のミイラについてこんな記述があるのです。
ある老僧が入定すると言って断食修行に入ったのだが死にきれず、里までフラフラになって降りてきた。里人は怒って追い払ったところ、どこか辺鄙な場所で死んでしまったのがミイラになった。
はたして真相は?
横蔵寺にとってこんなお話は大迷惑でしょうね。もし科学的な調査が行われれば、亡くなる前に断食修行をしていたかどうかがはっきりするのですが……。でもぜひ調査を受けてほしいと思う一方、やっと安住の地に落ち着いたのだからのんびりさせてあげたいなとも思うのでした。(2007年09月30日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
両界山横蔵寺(りょうかいざんよこくらじ)
住所 :岐阜県揖斐川町谷汲神原1160
電話 :0585-55-2811
時間 :10:00~16:00(宝物殿とミイラ堂)
休業日:年中無休(宝物殿は12~3月と雨天休み)
拝観料:無料(宝物殿と舎利堂は大人500円)
駐車場:無料
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