新潟市の中心街。三越デパートのすぐ付近に唐突に出現する弘法大師像です。弘法様は身長9m。ビルの上に立っているので20mぐらいの高さがあります。いったいなぜこんなところに? 調べてみると驚くべきことが分かりました。
ビルに取り囲まれた『進撃の巨人』的弘法大師像
三越デパートの6階からの眺めです。真っ白なので良く目立ちます。周りがビルだらけなのでものすごい違和感です。『進撃の巨人』に出てくるエレン巨人(15m級)〜獣の巨人(17m級)ぐらいあるでしょうか。不謹慎ながら弘法大師なのに街を襲ってる感があります。
いったいなぜこんなところに──?
新潟の地元民なら知らない人がいないほど有名な弘法大師像。待ち合わせの際に場所を教えるランドマーク的な建築物となっているそうです。なぜこんな繁華街に巨大な像を建てたのか非常に不思議ですね。興味が湧いたので調べてみると意外なことが分かりました。
弘法大師の下には弘願寺というお寺がある
この像の下には弘願寺というお寺さんがあります。鉄筋段階建てで40坪ほどの小さなお寺です。このお寺の初代住職さんは平岡弘観さんという方ですが、今は新潟県長岡市にある西生寺のご住職が管理されています。毎月28日の午後1時からは護摩祈祷と法話が行われています。
この西生寺も珍スポット的には大変有名なお寺なので、後日別の記事でご紹介しますね。
「ストリップ劇場跡地に建つのウラを取る」に秘密が!
「cobanobuのブログ」様にこのお寺の経緯について調べた業界雑誌の引用がありました。原本を入手できなかったので孫引きとなってしまいますが、大変興味深い内容でしたのでご紹介いたします。引用元は『財界にいがた』(2013年1月)タイトルは「新潟三越脇の巨大弘法大師像は「ストリップ劇場跡地に建つ」のウラを取る」です。
昭和40年代に存在していたストリップ劇場・オリオン
当記事によると、弘願寺は劇場オリオンの跡地に建てられています。オリオンは昭和40年少し前から昭和43年にかけて存在していたストリップ劇場で、1階がオリオン、2階はグランドキャバレー・夜来香(イエライシャン)でした。このオーナーがどうも平岡弘観氏らしいのです。
昭和44年7月に1億2500万円をかけて建立?
平岡弘観さんの亡き奥様が夢枕に立ち仏道を説いたことから仏道に入り、1969(昭和44)年に弘願寺および弘法大師像を建立したと言われています。また別のサイトですがTripadvisorには
9mの巨大な弘法大師様が、新潟市中心部のビル街に、突如現れるシュールな光景…
新潟日報社の記事によると、寺の前身はストリップ劇場「オリオン」だそうで、当時の経営者が突然襲われた病魔により仏に救いを求められ、昭和44年7月に1億2500万円をかけて建立されたそうです。(Tripadvisor)
とありました。新潟日報の該当記事が見つからなかったので真偽は分かりませんが。また別サイト「発見!新潟島 西堀通り寺めぐり」様ではこの方のお名前は岡田治峰氏であるとも書かれていましたがこちらもソースが他に見つからなかったのではっきりしません。
劇場オーナーと初代ご住職とは同一人物ではないか
またウェブ版『財界にいがた』に、法務局の登記簿謄本に昭和57年に弘願寺へ所有権移転している旨が書かれています。そこでの謄本の記録によれば、やはり弘願寺を建てた方はストリップ劇場を経営していたご本人かご家族ではないかと結論づけています。
オヤジ系珍スポットとは
私は夢のおつげなどによって晩年突然仏教に目覚めて、巨額を投じて宗教施設を作ってしまう方に非常に惹かれます。勝手に「オヤジ系珍スポット」と呼んでいるのですが、それはたいていの場合において男性の大成功者であり、一家のお父さんがこのような施設を作ってしまうことが多いからなのです。
以下オヤジ系珍スポットの例を挙げます。
なんとなく気持ちが分かるようになりました
私も人生の折返し地点となりましたので、彼らの気持ちが分かるようになってきました。若い頃がむしゃらに仕事を稼いで大金を得た方々が、晩年に人生について考えた時、やはりモノよりもココロの方に重点を置きたくなるのでしょうね。私はオヤジ系珍スポットが大好きです。(2019年05月04日訪問)【麻理】
追記
「cobanobuのブログ」様の『財界にいがた』の記事の引用は以下の通りです。
新潟三越脇の巨大弘法大師像は「ストリップ劇場跡地に建つ」のウラを取る(2013.1)
古町は新潟随一の繁華街である。その「ふるまちモール6」を入ってすぐ右に曲がると当の巨大弘法大師像が目に入る。鉄筋3階建て44坪の寺院の陸屋根に聳え立つ。右手には金剛杖、左手には金剛杵を持ち巷の煩悩を睨みつけているかのようだ。記者はこの寺の開基で初代住職平岡弘観をストリップ劇場オーナーと同一人物と断定する。しかも弘願寺の名もそれに因んで付けられたと考えている。ストリップ劇場の前は何をやっていたかと記者は追及の手を弛めない。古町の近くに昭和新道という場所がある。高度成長期にはソープランドで名を馳せた場所であるが、それよりずっと前の昭和20年代後半に平岡弘観はアルサロをその地で開き当てたのだった。そこで念願の古町進出ということになったらしい。図書館で当時の古町の様子を当たって見たが、昭和30年代から40年にかけての住宅地図が完全に揃っていない。断片的な記録からストリップ劇場オリオンは昭和40年少し前から43年にかけてあったらしい。1階はオリオン劇場、2階にはグランドキャバレー 夜来香 (イエライシャン)があった。ひょっとしたら夜来香も平岡弘観の所有だったのかもしれない。平岡の亡妻が夢枕に立ち、仏道を説いたという話が伝わっている、ネオン街の成功者はそれに導かれるように寺を建立したのかもしれない。
オリオン劇場の広告で出演メンバーを見るとほとんどドサ回りの踊り子のような気がする。しかし全国的に名の通った踊り子も来ている。桜千代美とか美山二三子などがそうである。美山二三子は昭和17年生まれ。女剣劇からストリップ界へ入った。巨乳の美人ストリッパーとして有名だった。特に昭和43年ヌードインテリジェンス社主催の裸の女王コンテストでは都ますみ、メリーエンゼル、扇ユキの次にランクされている。この時代オリオン劇場の他に(旧遊郭)本町14番町にセントラル劇場があった。昭和41年道頓堀劇場の踊り子がここに来演している。道頓堀劇場は何回も経営が変わっている。映画館、キャバレーの合間を縫ってストリップ劇場が挟まるという具合である。江戸時代色町と芝居町を結ぶ橋が道頓堀川に掛かった。このことからそれは相合橋と名付けられた。同橋詰めに現在金竜ラーメンが建っている。こちらを浜側といったらしい。その反対に道頓堀劇場はあった。吉野家がテナントとして入っている東山ビルの隣からJRAビルの一部にかけてあった。おそらくこの年代頃を期に道頓堀劇場は消滅したと思われる。
新潟はドサの踊り子と中央の踊り子の接点であった。このような場所に長野市の七瀬劇場もあった。昭和49年頃だったが、平塚、大和、新丸子の劇場を擁する平塚チェーンが長野にも系列館を繋いだ。ドサ回りということで渋る踊り子もいたが、これを機会にと、販路を上諏訪フランス座、松本人生劇場あるいは上山田の劇場へと拡大する前向きの踊り子も増えた。ドサ回りの踊り子の大半は年配のストリッパーが多かった。それも(悪い方に)想像をはるかに超えた出演者がほとんどだった。人生勉強とはいえ随分味気ない思いをさせられた。その中で稀にではあるが、目の覚めるような踊り子に出逢うことがある。その貴重な想い出を胸に足を運ぶのであるが、再会を果たしたためしがない。あの出逢いは中央の踊り子が気紛れに立ち寄ったものなのだろうか。
参考文献
発見!新潟島 西堀通り寺めぐり.13.弘願寺
弘願寺の巨大弘法大師像 | DEEP案内不動産部
新潟オリオン劇場 | cobanobuのブログ
9mの巨大な弘法大師様が、新潟市中心部のビル街に、突如現れるシュールな光景… – 弘願寺の口コミ – トリップアドバイザー
地図&情報
弘願寺 弘法大師像
住所 :新潟県新潟市中央区西堀前通六番町
駐車場:なし