かつて地図からも歴史からも抹殺されていた島があることをご存知ですか? 広島県の大久野島は放し飼いのウサギで知られる人気観光地。しかし大戦中は旧日本軍の毒ガス工場だったのです。
人気のリゾートスポット・大久野島(おおくのしま)
大久野島(おおくのしま・おおくのじま)は2000もの島々から成る瀬戸内海に浮かぶ島の一つ。周囲4キロで自転車なら30分で一周できるぐらいの小さな島です。忠海港からフェリーで15分ほどの距離にあります。休暇村やキャンプ場もあり、中国地方のリゾート地として人気のスポットです。
ゴールデンウィークでものすごい大行列!
私が訪れたのはゴールデンウィークの真っ只中。天気も上々だったからかものすごい人、人、人! ご覧くださいこの長蛇の列! 朝の6時に広島市内のホテルを出発しましたが、大渋滞に巻き込まれてて到着したのが8時半。そしてさらに2時間半並んで、ようやく船の切符を買えました。
ほとんどの方はウサギとの触れ合いが目的のようです
「旧陸軍の軍事施設に興味のある方がこんなにいるなんて、さすが広島の人は意識が高い!」と感心していたのですが、どうやらほとんどの観光客は「毒ガス島としての大久野島」よりも、「放し飼いされたウサギと触れ合えるラビットアイランド」としての大久野島を目当てにいらっしゃっているようでした。道理でほとんどがカップルと家族連れなわけだわ。
東洋のエーゲ海と言われる美しい景色
15分の船旅を終えて島に到着。その景色の美しいこと、清々しいこと。さすが「東洋のエーゲ海」とまで言われるだけあります。瀬戸内の美しい島々と透き通った海に、渋滞や行列の疲れが吹き飛ぶようでした。リゾート地として人気なのも納得です。
島内に住む700羽のウサギたち
大久野島には約700羽のウサギが住んでいます(※)。これらのウサギは全てアナウサギという種類のもので、島のあちこちに穴を掘って生活しています。ウサギが住むようになったきっかけは様々な説がありますが、1971年に地元の小学校で飼われていた8匹のウサギが増えたという説が有力です。
ウサギとの触れ合いが楽しめる、うさぎ島(兎の楽園)
港で販売されているペレットで餌付けしたりなど、可愛いウサギと自然の中で触れ合える大久野島。ウサギファンには「うさぎ島」「兎の楽園」とも呼ばれています。私もうさちゃんの可愛さに目尻が下がりっぱなし。……はっ、いかんいかん。私の目的はウサギではなかった!
大久野島毒ガス資料館で戦中の歴史を学ぶ
冒頭にも書いたように、大久野島は大日本帝国陸軍が極秘に毒ガス製造を行ってきた島です。島の各地には当時の毒ガス工場関連施設が点在しており、1988年にオープンした大久野島毒ガス資料館では当時の資料や軍事兵器が展示されています。
毒性の高いイペリットガスなどを製造
昭和4年(1929)〜昭和19年(1944)に大久野島で作られたのは、イペリットガス(マスタードガス)、青酸ガス、クシャミガス、催涙ガスなどです。どれも毒性の高いものばかり。資料館ではイラン・イラク戦争で使用されたイペリットガスの被害者の写真が展示されていたのですが、全身がただれた水ぶくれに覆われていて、目を背けたくなるような悲惨な有様でした。
ジュネーブ条約で毒ガス兵器の使用は禁止されていたが──
大正14年(1925)のジュネーブ条約で毒ガスをはじめとする化学兵器の使用が禁止されていましたから、毒ガスの製造などもちろん言語道断です。しかし日本軍は「毒ガスの開発や保有は合法」であったことと、日本がジュネーブ条約に署名だけしていて批准はしていなかったことを利用して毒ガス製造に踏み切ったのでした。
工員募集には6000人が殺到
昭和2年(1927)には島の住民が強制退去させられ、工場が建設されました。化学兵器の製造工場ということだけは伝えられていましたが、危険な毒ガスを作っているということは伏せられていたため、工員の募集には6000人以上が殺到したそうです。表向き「皇軍兵器製造技術者」としての採用だったので、採用者はとても誇らしく思ったことでしょうね。
工場では毒ガスによる人身事故が多発
しかし毒ガス製造は大変な危険を伴う仕事で、工場では人身事故が多発しました。当時の防毒マスクやスーツは完全に毒ガスを防ぎきれず、隙間から侵入したガスによって、たくさんの工員に肺炎や気管支炎、皮膚病などの後遺症を残すこととなりました。犠牲者は1200人以上、死亡率は22%と言われています。
島そのものが存在しないものとして末梢されていた
敗戦の時まで毒ガスを作っていることは極秘事項でした。そのため島の名前だけでなく島そのものが存在しないものとして地図から末梢されていました。日本国民にも毒ガス製造について伝えられていなかったので、毒ガスによって亡くなった方々の死因も隠され秘密裏に処理されました。
終戦でようやく工場の稼働は止まったが……
戦局が拡大すると毒ガスの他、発煙筒製造や風船爆弾まで作られるようになりました。そして昭和20年(1945)終戦を迎え、ようやく大久野島の毒ガス製造工場は稼働を止めました。しかし悲劇はここで終わりませんでした。
除毒処理せずにそのまま海洋投棄された毒ガス
大久野島に残された毒ガスは約3万トン、毒ガス弾は1万6000発もありました。敗戦直後、毒ガス製造について隠蔽しようとした陸軍は大慌てで工場を解体したため、ろくに除毒処理もしないまま海洋投棄したと言われています。資料も焼かれてしまったので、GHQが行った毒ガス処理はずさんなものでした。
海洋投棄や火炎放射器による毒ガス処理
ほとんどの毒ガスは海洋投棄か火炎放射器によって焼却されました。大久野島の軍事施設の中には火炎放射によって真っ黒に壁が焦げている建物がいくつもあります。また島の一部には不適切な処理で毒ガスに汚染された場所もあるということです。残留化学物質があるかもしれませんので、各地にある「立入禁止」の立て札を見逃すこと無く、不用意に立ち入るのはやめましょう。
大久野島のランドマーク・発電所跡
大久野島の軍事施設の中で最も有名なものはこの発電所跡でしょう。毒ガスを製造する際に電力を供給していたものです。当時重油を燃料とするディーゼル発電機が8基も設置されていました。割れたガラス窓や真っ黒になった壁が禍々しく、異様な迫力で迫ってきます。
「ふ号作戦」の風船爆弾もここで作られていた
終戦間際には「ふ号作戦」に使用する風船爆弾の製造も行われていました。動員学徒の女学生が和紙をこんにゃく糊で貼り合わせる作業を必死で続けていた場所です。風船爆弾は以前埼玉ピースミュージアムで模型を見ましたが、こんな奇想天外な兵器をよく日本軍は考えたものだとびっくりしたのを思い出しました。
美しく平和な大久野島の現在
連合軍から島が変換されたのは1947年のこと。しばらく朝鮮戦争における弾薬庫として使われましたが1963年に休暇村がオープンしてからは観光地として生まれ変わりました。
現在の大久野島は家族連れや幸せなカップルがのんびりと散策を楽しみ、澄み切った青空にヤシの木がそよぐ平和な島です。こんな美しい島で人を残虐に殺す兵器が作られていたなんて……。まるで白昼夢を見ているかのようでした。
ウサギも可愛いけど、ぜひ軍事施設も見学してみよう
しかし現在も毒ガスの後遺症に苦しむ人がいたり、当時中国に運ばれた毒ガスが新たな犠牲者を出していることも事実なのです。
あちこちで跳ね回る可愛いウサギとの触れ合いも、海を背景に楽しむバーベキューも楽しいものです。でもぜひここを訪れたらついでに軍事施設も見学してほしいなあと思います。この美しい島がいつまでも平和であることを願いました。
ウサギ目的の方は港でペレットを買いましょう
ウサギちゃんとの触れ合いのために一つアドバイス。ウサギの餌のペレットは、島では販売されておらず港でしか買えません。オフシーズンだとウサギに対して人が少ないので、あっという間に餌がなくなってしまいます。ウサギ目的の方は多めに餌を買っておきましょう。(2017年05月03日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
大久野島(おおくのしま・おおくのじま)
住所 :広島県竹原市忠海町大久野島
電話 :0846-26-0321(休暇村大久野島)
休業日:年末年始(※大久野島ビジターセンター・毒ガス資料館)
時間 :09:00〜16:30(※毒ガス資料館)
運賃 :片道大人310円(※毒ガス資料館は入館料大人100円)
駐車場:無料
関連URL:うさぎと触れ合う癒し旅|大久野島のうさぎ|広島県公式観光サイト ひろしま観光ナビ
大久野島毒ガス資料館 – Wikipedia