邪馬台国はどこにあったのか? 現在では主に畿内説と九州説にわかれていますが、実は徳島にあったという驚きの説があります。卑弥呼の墓と言われている八倉比賣神社を訪ねました。
徳島市の八倉比賣神社へGO
歴史学者や古代史マニアの間で侃々諤々(かんかんがくがく)の論争となっているこの話題。あなたも一度は興味を持ったことがあるのでは?
徳島市の西にある国府町。式内社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」のうちの論社の1つ八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)です。阿波史跡公園にクルマを置いて、山の中の石段を登っていきます。この小山は杉尾山という名前で、山自体がご神体とされています。
古代阿波研究会『邪馬壱国は阿波だった』
200段ほどの石段を登り切ったところにある拝殿です。阿波国・徳島が邪馬台国であると主張しているのは、堀川豊平氏らがメンバーとなっている郷土史家の研究グループ・古代阿波研究会で、1976年出版の『邪馬壱国は阿波だった』(新人物往来社)に発表されています。
卑弥呼=天照大神
阿波研究会は、卑弥呼は天照大神(アマテラスオオミカミ)であると仮定して、日本で最初に稲作が栄えた地を邪馬台国だとするならば、なだらかな山の連なる阿波国こそ稲作の発達に最適であると推測しています。これだけだとちょっと弱いかも。
円墳の上の不思議な石積みの祭壇
拝殿の後ろにある本殿です。拝殿の裏手には円墳と方墳が存在します。阿波研究会によるとその円墳の上に作られている不思議な石積みの祭壇こそが、女王・卑弥呼の墓であると言うのです。
「神陵の経は百余歩」=『魏志倭人伝』の「経百余歩」
拝殿の奥にある階段を登ります。古墳の周囲はおよそ350メートルの参道が囲んでいます。八倉比賣神社の古文書には「神陵の経は百余歩」と記されているのですが、その数値は『魏志倭人伝』にある「経百余歩」という記述と一致します。ふむふむ。
縁起には天照大神の葬儀の記述が
また八倉比賣神社の御祭神は八倉比売命。この女神は天照大神であるとされており、天照大神は大日孁尊(オオヒルメノミコト)とも呼ばれますが、阿波研究会は卑弥呼の別の読み方「ヒルメ」と同じであると主張しています。そしてなんと八倉比賣神社の縁起には、天照大神の葬儀の様子が記されているんだとか。さあいよいよ面白くなって来ました。
徳島に多い五角形の祭壇
これがその謎の祭壇です。私の体と大きさを比べてみてください。高さは約50センチ、一辺は2.5メートルの正五角形をしています。祭壇は石組みで、このような形の古墳は他の土地ではあまり見ることがありません。実は徳島にはこのような五角形の囲みの祭壇が2000基以上もあると言われています。陰陽道の五芒星と関係があるのでしょうか?
五角形の祭壇は五神を表す?
一説には、この五角形は天照大神、大国主(オオクニヌシ)、少彦名(スクナヒコナ)、埴安媛(ハニヤスヒメ)、宇迦之御魂(ウカノミタマ)の五神を表すとも言われます。五角形の頂点は天照大神が鎮座すると言われ、ここでも天照大神=卑弥呼、つまり五角形の祭壇は卑弥呼の墓の根拠とされています。
邪馬台国の光通信システム
古代阿波研究会の『邪馬壱国は阿波だった』にはちょっと面白い説が書かれていました。阿波邪馬台国では、通信のシステムに銅鏡を使っていたというのです。瀬戸内海一帯の山に通信台を作って各所に銅鏡を設置し、通信内容をリレーのように太陽光の反射を通信台から通信台へと送っていたんですって。
実際に目の前にするとワクワク!
魏から渡ってきたたくさんの銅鏡が、光の反射の通信システムに使われていたとは! 徳島県の古老への聞き取り調査によってこの説が裏付けられたと『邪馬壱国は阿波だった』にはありましたが、目からウロコのユニークな仮説ですよね。鬱蒼とした山に登ってみてこの不思議な祭壇を目の前にすると、古代のロマンに胸がワクワクしましたよ。
阿波史跡公園には古代の家
さておまけですが、八倉比賣神社の山のふもとにある阿波史跡公園には古代の家が復元展示されています。ここのトイレがさきほどの卑弥呼の墓的な石積み造りになっているんです。
トイレにもぜひ注目してね
トイレの男性、女性のプレートに注目。阿波踊りを踊っている男女の踊り手のイラストなんですよ。さすが徳島、観光のツボを分かってらっしゃる。(2009年05月03日訪問)【麻理】
参考文献
地図&情報
八倉比賣神社(やくらひめじんじゃ)
住所 :徳島県徳島市国府町矢野531
電話 :088-642-1710
時間 :参拝自由
拝観料:無料
駐車場:無料